スタッフ紹介

院長  冨高 誠治

院長  冨高 誠治

生年月日
昭和52年1月23日
出身
長崎県大村市
血液型
B型
趣味
猫、読書
資格
柔道整復師、はり・きゅう師、自律神経整体
好きな本
手塚治虫の「ブッダ」  弱虫ペダル
好きな言葉
一勝九敗

専門学校と一つ目の仕事

専門学校と一つ目の仕事

私は長崎県の大村市の出身で、高校までは地元の高校に通っていました。

子供の頃からゲームが好きだったこともあり、高校三年の時に行われた卒業後の進路相談でゲームに携わる仕事に就きたいと思い、小倉北区のコンピューターの専門学校に入学しました。

この専門学校には奨学金制度があり、新聞配達の仕事をすると、学校の授業代を免除してもらえましたので、新聞配達と勉強を両立させながら3年間がんばりました。

早朝3時に起きて新聞配達をし、その後授業を受けるという生活でしたので、授業は半分くらい寝ていたような気がします。

とはいえ、その分を取り戻すように、夜は勉強に一層励みました。

新聞配達と勉強の両立で根性はついたと思いますが、22時まで勉強し、寝付いたと思ったら午前3時に起きて働くのはとてもつらく、常に眠気との過酷な戦いだったので、もう新聞配達はしたくないと心から思いました。

頑張った甲斐もあり、コンピューターの国家試験に合格することができましたが、残念ながら就職活動では念願だったゲーム関連会社の内定が取れず、小倉北区のシステムエンジニアの会社に就職することになりました。

そこでは黙々とパソコンに向き合い、長時間の座り仕事で肩・腰が徐々に痛い状態になっていきました。

整骨院との出会い

整骨院との出会い

ある時、仕事中に椅子から立ち上がろうとした際に腰に痛みがはしり、動けなくなっていまいました。

「早く治さないと生活・仕事に支障をきたす」と思い、友人の紹介で初めて整骨院に行くことになりました。

これが、私と整骨院の生まれて初めての出会いでした。
ですから、整骨院の情報がまったくなく、行く前は

「どんな治療をするのか?」
「保険は効くのか?」
「料金はいくらくらいするのか?」
「痛くないか?」
「本当に治るのだろうか?
「逆にひどくなったりしないだろうか?」

と、不安に感じていました。

でも治療してくれた先生は、明るく自信に満ち溢れていて、
「3回で治るから必ず来るように!」と言われました。

そして、通い始めると、通院2回目で痛みが消えてしまいました。
あの時、ものすごく感動して先生の手を握ってしまったことを今でも忘れられません。

と同時に、初めて整骨院の世界に興味を持ちました。
なぜなら、他人から評価され、人の役に立てると実感できる仕事だと感じたからです。

私がやっていた仕事は病院で医師や看護師さんが患者さんの情報を管理するプログラムを作成することだったのですが、このプログラムは一つでも不具合がでると、うまく作動しなくなり、使う人に迷惑がかかってしまうため、完璧に作るのが当たり前でした。

不具合がでるたび、病院から連絡があり、上司から糾弾され終わるまで帰れませんでした。プログラムが完成しても病院の人たちと会うこともなく、まったく評価もされず、達成感がないまま同じような仕事が始まることの繰り返しで、うんざりしていました。

それに比べ、整骨院の先生は治療の腕さえよければ患者さんから感謝されるし、悪ければ患者さんは来なくなってしまう。そんな実力主義の世界に魅力を感じました。とはいえ、まだその時は漠然といいなと感じたくらいでした。

母の病気

母の病気

システムエンジニアの会社で勤務が4年をすぎた頃、長崎の実家にいる弟から電話が鳴りました。

「母がガンになったみたい」

実家に帰って弟から話を聞いてみると、母は担当の先生からガンのことを私達よりも先に聞いていて、ショックだったはずなのに態度にはまったく出さずに、痛みがあったのにもかかわらず誰にも話をしないでただ耐え、とうとう痛みに耐えきれずに、ガンのことを弟に打ち明けたそうです。

改めて弟が病院で担当の先生から聞いた診断名は
「すい臓ガン」でした。

私は3人兄弟の長男で、弟と妹が実家に母と一緒に住んでいたのですが、私も直接詳細な話を聞きたかったのでさらに改めて兄妹3人で先生に話を聞きに行きました。

ガンのできた場所が悪く、手術ができないうえにかなりガンが進行していて「一年生存できる可能性が15%以下」と言われました。

私達はショックを隠せなかったです。

母がガンのことを打ち明けなかったのは父を早くに亡くしていたので、私達兄妹に心配かけたくなかったからでした。

父は、42歳の時、過労による突然の心臓発作でこの世を去りました。

その時、私は19歳でした。小倉の専門学校にいた時で父の死に目に会えず、親孝行をまったくしてあげられなくて後悔をしました。

母はがんの進行を止められる可能性があると聞いて3か月抗がん剤治療をすることになり、私は母のことを知って2か月後に無理を言って会社を辞めさせてもらいました。

なぜなら、母に何かあったときには父にしてあげられなかったことをしてあげようと心に誓ったからです。

この時、実家に戻って自由の利く派遣の仕事をしながら、母の看病をしました。

抗がん剤治療は副作用が出て体の調子が悪化しただけで効果が出ずに終わり、母が「痛い治療は嫌」と治療を拒否するようになりました。

家族みんなで話し合った結果、痛みを伴う治療は止めて、家で静養しながら他の治療法を探っていくことにしました。

私は母の痛みを少しでも和らげることができることはないかと、すがる気持ちでインターネットで検索かけて、いろんなことをやりました。

温熱療法(がん細胞を体を温めて殺す方法)
食事療法(きなこ・黒ゴマなど体の調子を良くしていく方法)
鍼・温泉療法
エネルギー療法(機械を使って体調を良くする方法)・・・

しかし、どれも効果が薄く、少しずつ母の容体が悪くなっていきました。

病院を退院して2か月を過ぎた頃、大分の叔母からビワ灸(ビワの葉のエキスを体に塗ってビワの葉でできたもぐさでお灸をする方法)をやってみたらと連絡があり、母を連れて大分でビワ灸を3日間やったところ、体の調子が抗がん剤治療をする前の感じに戻り、母が「今までのものとは違う」と喜んでくれました。

元気な母を見て、今まで探してきてよかったと家族で喜び合ったのを覚えています。

長崎から大分まで通うことは難しかったので、自宅で誰でもできるビワ灸のセットを購入し、兄妹で一日3回やりました。その甲斐あってか母の調子は半年くらい良い状態が続きました。

調子が悪かった時には外出でさえも出来なかったのに、調子の良い時には泊まりで旅行に行くことができました。

私がお灸をしていた際、母に
「ここまでしてくれてありがとう。パパにもしてあげたかった。」
と言われた時には涙が止まらなかったです。少しは親孝行できたのかなと思えました。

その後、母の体調は徐々に悪くなり、がんと診断されて一年半が過ぎた頃に、母はこの世を去りました。

一年生存できる可能性が15%以下と言われて、副作用が強い抗がん剤治療を使った時よりも、ビワ灸のおかげで痛みで苦しむことがかなり減り、最後まであまり苦しまずに逝きました。一年半の間に母のやりたかったことを出来る限りの事をしてあげられたのではないかと思います。

この時に私は治療家になることを決意しました。なぜなら、母にビワ灸をして痛みを和らげることができたことで、治療の素晴らしさを知り、母のように痛みで苦しんでいる人を私の手で少しでも楽にしてあげたかったからです。

腰を痛めて通った際に3回で治してもらい整骨院に興味を持ったことが、この時ついに本気で治療家の道に進む決意へと変わったのです。

治療家への道

治療家への道

整骨院を開業して、地域に貢献したかったので柔道整復師。
お灸や鍼もやりたかったので鍼灸師。

この2つの資格を取得するためには学費がかなりかかるので、3年ほど派遣で働きました。

当時長崎には資格を取得できる専門学校がなく、福岡の評判が良かった学校に3年間通うことになりました。ちなみに早く卒業して整骨院で働きたかったので、鍼灸師と柔道整復師の資格を2つ同時に受講しました。

学校では若い子ばかりで私は年上で成績は上位にいましたので、同級生に学校のテスト一週間前から科目別の要点を作成して配ったり、勉強の仕方を教えてました。

一番の思い出は勉強を教えていた子達がいつの間にか付き合って、結婚したことです。
気づかぬうちに恋のキューピットになってしまいました(笑)。

現在でも連絡を取り合う仲間ができ、いい時間を過ごせたと思います。

卒業後は多店舗経営に興味があったので、専門学校の先輩方や先生に聞いて、店舗が多く、スポーツの救護活動や地域のイベントに積極的に参加して地域に貢献していた、長崎にある整骨院グループに就職することになりました。

そこでは整骨院の基礎
治療の考え方
マニュアルの治療
多店舗経営のノウハウ
デイサービスの併設
不動産との提携
患者さんとの接し方
ミーティング
勉強会
マーケティング

などを学び、私の治療に対する基盤ができあがりました。

長崎の整骨院で一番印象に残っているのは膝の痛みがひどく、まともに歩けなかった患者さんを担当させてもらっていたのですが、徐々に良くなり普通の歩き方ができるようになりました。

私が退社することを知って整骨院にやってきて、その方が泣きながら、
「あんたのおかげで膝がこんなに良くなった。ありがとう」
と言われました。この時初めてこの仕事を選んで良かったと少し泣きそうになったのを覚えています。

長崎では鍼をすることができなかったため、さらなるスキルアップのため鍼灸ができる整骨院を探しました。

インターネットの求人サイトで見つけたのが大分にある、個人経営の鍼灸整骨院でした。

面接の中で院長が「技術力を上げるならうちにおいで、治せるなら治療法は何をしてもいいから」「鍼はケガさせなければ好きにしていいよ」と言ってくれたのが大変魅力的で、その場で決めてしまいました。

長崎の整骨院では治療する先生は各院に3人だったのですが、大分では先生が6人もいてびっくりしました。長崎と比べて、大分の整骨院は診療時間が短く、来院する患者さんの数も多い為、先生が増えたそうです。

大分の整骨院で働いていたすべての先生の少しずつ治療方法が違い、独自に勉強会に行って技術力を上げ、お互い切磋琢磨して、良い所は真似したり、教わったりしているのを見て、ここに来てよかったと思いました。
私にとってすべてが新鮮に映り充実した日々を送ることができました。

今、私が現在常若整骨院で行っている治療の中に含まれている手技は大分で学んだことが多いです。

そして現在

そして現在

大分での修行の後、北九州での院長としての経験を積み、福岡市早良区の西新に近い祖原で開業することになりました。

ここを選んだ理由は西新にある専門学校に通っていた際にとても住みやすかったことと楽しく過ごせたからです。

前の仕事をしていた時にはまさか治療するとはまったく考えていなかったですが、今ではなんでシステムエンジニアをしていたのだろうかと思うくらいです^^

私のところに来られる患者さんには、母にお灸をして喜んでもらったように喜んでもらいたいし、長崎で泣きながら感謝の言葉を下さった患者様とのように感動を分かち合いたい。

私はいつも、そんな思いで患者様の治療にあたっています。

あなたの人生が輝くようお手伝いしていきますので、これからもよろしくお願いします。

常若整骨院 院長 冨高 誠治

受付  冨高 明子

受付  冨高 明子

生年月日
1984年2月25日
出身地
大分県臼杵市
血液型
A型
好きな食べ物
ニューヨークチーズケーキ、じゃがいも、昆布
好きな本
蝶々さん、推理小説(アガサ・クリスティ、ローラ・チャイルズが特に!)
特技
イラスト、タロット占い

メッセージ

 

私自身、長年整骨院に通い歩いていましたが、院長の施術と出会ってガラリと体が変わりました。

■毎年ひいていた喉&鼻から来る風邪をひかなくなった
■花粉症がなくなった
■過度の心配性がなくなった
■PMSや生理痛が軽くなった
■食事が変わり、肌がキレイになった 等等…

今、「体質だから」「年だから」と思っているお悩みも、実は単なる思い込みかもしれません。希望を持って施術を受けると、お体はドンドン変わっていきます。
整骨院では「施術家目線」と「お客様目線」を行ったり来たりしながら、皆様に役立つ情報をお伝えしていきたいと思っています。